
「荒城の月」や「花」で有名な作曲家、滝廉太郎。その記念館が大分県竹田市にあります。
滝廉太郎は学生の頃竹田市に数年間住んでいて、その影響で「荒城の月」の名曲が生まれたとされています。
今回は滝廉太郎が住んでいた「旧宅」のご案内です。
「滝廉太郎記念館」の基本情報(アクセス・入館料・営業時間・駐車場等)
アクセス
入館料・営業時間・駐車場等
小中学生:200円(20人以上団体150円)
滝廉太郎とは

滝廉太郎は1879年(明治12年)、当時の東京市に生まれます。瀧家は江戸時代に、豊後国日出藩の家老職を代々務めた上級武士の家柄でした。
父・吉弘は地方官として働いていて転勤が多く、滝廉太郎が12歳のときに父の転任のため、一家全員で豊後竹田の官舎(ここ滝廉太郎記念館)に移ります。
それから2年半ほど竹田市で暮らしました。多感な少年時代に竹田の自然や優しい人たち、また「荒城の月」のモチーフになった「岡城跡」にも影響を受けました。
そして1894年(明治27年)、15歳で東京高等師範学校付属音楽学校予科(後の東京音楽学校)へ入学。一度脚気を患って竹田に帰り静養しますが、1898年(明治31年)に本科(専修部)を主席で卒業します。
1901年(明治34年)に「荒城の月」の掲載されている文部省編纂中学唱歌が出版され、同年4月にドイツ留学のため横浜を出港します。ライプツィヒ王立音楽院に文部省外国留学生として入学。
そのわずか5ヶ月後に肺結核を発病し入院します。その後退去命令が下り、翌年の10月道半ばで東京へ帰着します。11月には父の故郷である大分に戻り、療養をしていました。
しかし1903年(明治36年)、大分市稲荷町(現在の府内町)にて満23歳の若さで亡くなります。
死後は結核に冒されていたということから、多くの作品が焼却されたそうです。作曲数が多かったという話もあるようですが、現存作曲作品は34曲で決して多くはありません。
滝廉太郎記念館

城下町交流プラザからほど近い、徒歩1,2分の場所にある記念館です。
立派な門の中に見えるのが滝廉太郎の旧宅。ここに滝廉太郎が住んでいました。

城下町パスポート(城下町文化施設共通観覧利用券)も使えます。
\城下町交流プラザ・城下町パスポートの記事はこちら/ 大分県の南西部に位置する竹田市、一日に数万トンの湧出量ともいわれる豊富な湧水と緑があふれる自然豊かな地域です。 その城下 ...
竹田市の城下町を歩こう!交流プラザ周辺の歴史散策

門を潜ると右手に滝廉太郎の肖像があります。

旧宅です。趣のある日本家屋。チケットは中に入って購入可能。ここでこの記念館のみのチケットを購入するか、城下町パスポートを買うか選べます。


館内には畳の間、滝廉太郎の直筆の譜面や手紙、写真などが展示されています。奥に入っていくと庭と、その離れには蔵があります。蔵で上映されている滝廉太郎の生涯の動画は胸を打ちます。
「れんたろう通り」と「廉太郎トンネル」


滝廉太郎記念館の前は「れんたろう通り」となっており、記念館を出て右に行くと左手に廉太郎トンネルが見えます。
このトンネルを通ると滝廉太郎の曲がオルゴールの音色でランダムに流れます。春~夏は「花」「荒城の月」「水あそび」、秋~冬は「荒城の月」「はとぽっぽ」「秋の月」です。

トンネルを抜けるとこの道もれんたろう通りです。
まとめ
竹田市にゆかりの深い日本を代表する作曲家、滝廉太郎。その短い生涯を終えたのはここ、大分県でした。
「荒城の月」「花」の他にも「箱根八里」「雪やこんこん」などの代表作があります。短い生涯に素晴らしい作品を残した滝廉太郎の旧宅、一度行ってみてはいかがでしょうか。
大分県の南西部に位置する竹田市、一日に数万トンの湧出量ともいわれる豊富な湧水と緑があふれる自然豊かな地域です。 その城下 ... 大分県竹田市出身の童謡作詞家、童話作家、詩人、佐藤義美記念館です。有名な童謡に「犬のおまわりさん」「アイスクリームの歌」 ... 大分県竹田市にある「岡城跡」。難攻不落の堅城と言われているほど鋭く傾斜している天然の要害。そこには未だ石垣が残されており ...竹田市の城下町を歩こう!交流プラザ周辺の歴史散策
【佐藤義美記念館】竹田市出身「いぬのおまわりさん」で有名な作家
【岡城跡】国指定史跡、難攻不落の堅城と言われた「岡城」。「落ちない」で合格祈願にも!